そういえば少し前人身事故があったとき、JRが止まってしまって、振替輸送で私鉄で会社に行った。定期券を私鉄の駅員さんに見せて、改札を通らずに電車に乗ったが私鉄側からしたらどういう感情なんだろう?
一応ライバル会社な訳だし、尻拭いしている感がするんだけど。言ってしまえば大勢の人が無銭乗車しているわけだし。
まぁ困ったときはお互い様だね〜みたいなノリなのだろうか。
何か国から補助金的なものが出るのだろうか。
もうすぐゴールデンウイークに突入する。
ここ数年大型連休とは縁がなかったので今からワクワクしている。
というのはウソで特に予定があるわけではないので、正直そんなに長く休みはいらない。
非正規なので働かない分だけお金が減るので嫌だ。
というのもウソで特にお金に(今は)困っていない。
正直言って家にいても暇なので働きたいという感じだ。そして何もしないと考えごとをして不安になってしまうので忙しくありたい。
同僚に何が楽しくて生きてるの?と言われた。
なんか文章で書くとキツく見えるけど、全然そんな感じではなくフランクな感じに言われた。
思ってみれば、野球観たり本読んだり音楽聴いたりするのは好きだけど全部受動的な趣味だ。
趣味に限らず自ら行動することって今までの人生でほとんどないかもしれない。言われたままに、流されるがままに生きていたと思う。
何かしようとするとどうせ自分なんてできっこないと思ってチャレンジすることを躊躇してしまう。
小さなことから何か始めたいな~。
と思ったら今ジムに行っているんだった。自分の意志で。
今はムキムキになることを夢見て生きてます(適当)
『少年のアビス』(集英社)という漫画に今読んでいる。
2巻まで無料だったので読んでみたらハマってしまった。
主人公やその他登場人物が田舎ならではの人間関係やしがらみを抱えながら地元で生きていく物語だ。
皆自分を不幸にする地元から出ていきたい。地元にいることで心の底に闇を抱えてしまい、生きるのが精一杯なはずなのにそれでも地元にそして死にしがらみついて生きている。決して前向きな気持ちで生きているわけではないけど、どこか逞しく生きている感じがする。
主要人物がもれなく不幸の道に進んでいて救いようがないし読んでいて辛いけど、なぜか読んでしまう。
特に感情移入というか、心が締め付けられそうになる人物がチャコと呼ばれる高校卒業したら東京の大学に行くことを夢見る女子高生である。
他の登場人物に比べて不幸度?は低い。他の登場人物は確かに救いようがない道を歩んでいる気がするけど、どこか現実離れというか自分には縁のなかった世界なのでフィクションとして見れていた。
それに比べてチャコははたから見ればごく普通の家庭で生まれた何も問題がないような人物である。
ただ表面上両親や祖父とうまくいっているようで、心の底では憎しみの心があるような描写をしていた。
印象的だったのが、チャコが東京の大学に進学することを祖父や父が反対し、母親を通して地元の大学に進むことを伝えたこと。
文章で書いてみると些細なことに思われるが、親子の間に大きな溝があると感じた。
作中でチャコが人として扱われていない。私はペットのようなものだと言っていたが、決して大げさではないと思う。
どこの家庭でもありそうなリアルな状況だからこそ、胸がキュッとなってしまった。
今現在16巻ほど出ており、まだ4巻までしか読んでいないのでチャコがどうなったのか分からないが、登場人物の中で唯一と言っていいほどまともな人間なので幸せになってほしい。
コミックシーモアなどで2巻まで無料で読めるので気になる人はぜひ。
私には2つ離れた姉がいる。
大学生のころ、姉は飲み会で終電を逃してしまったとき、父に車で迎えに来てもらうように頼んだ。当時の父は毎日ビールを飲んでいたので私が迎えに行く事になった。父を助手席に乗せて駅まで迎えに行った。
そして姉を車に乗せたあと父と姉でちょっとした言い争いが始まった。
家族に迷惑がかかるだろう。友達との付き合いだからしょうがないじゃん。
みたいな会話だったかな。
私は黙って運転していた。
姉は私と違って意見をズバッというタイプだった。時々発言にヒヤヒヤすることがあったが…。遡って高校生ごろはよく親(特に父)に反発していた。でもそうした成長を経て今では自分の芯を持って生きている気がする。そして家族を行政を社会を頼って生きている気がする。用事があれば娘を両親に預けるし、役所のサービスをきちんと利用する。育児や仕事の悩みを母に電話で相談するし、極たまに父とちょっとした言い争いもする。そして私を買い物の足として利用する。
少々荒っぽいところもあるが家族、社会に支えられて生きるってこういうことなんだなあと思う。お互いが思いやるだけではなく、ときには衝突したり離ればなれになりながら社会というものが形成されていくのだなとしみじみ思う。
私はというと両親に反発することなんて基本的にない。悩みごとも心配かけたくないのでしない。喧嘩することもない。他者に迷惑をかけないことで社会の一員になっていると思い込んでいる節がある。
もちろん犯罪はダメだけど、もっと他者に、社会に甘えてもいいんじゃないかなと最近思っている。
もし大学生のあの時に、もう眠いから車は出さない。姉が一人で何とかしてよ。
と意見を言えたなら今の私は少し違ったのだろうか。
ここ数日心のモヤモヤが晴れないので今日は加藤諦三さんの本を読んだ。
気分が晴れないときや、自分と向き合いたいときは加藤先生(勝手にそう呼んでいます)の著書を読んでいる。初めて出会ったのは新卒で入った会社で精神的に参っていたとき。書店で『自分に気づく心理学』という本に出会ってからだ。
以降、Kindleで先生の読み放題の本が何冊かあるので気になるものを片っ端から読んでいる。
周囲の人と上手に付き合っていける人に対して妬みの感情を持ってしまった私に刺さった本があった。
自分が皆から好かれないといって、誰からも好かれ、誰にでも愛される人と同じような人になろうとすることはない。赤ん坊が横綱と相撲を取ろうとする必要はない。 小さい頃から困ったときに誰も助けてくれなかった自分が、勇気ある人と同じように生きられないといって悩む必要はない。 勇気ある人は、小さい頃に信じられる人がいた。困ったときに助けてくれる人がいた。 だから勇気のない人は、ただ勇気ある人を素直に尊敬すればいい。 勇気ある人を尊敬することは、臆病な自分を卑下することではない。勇気ある人を素直に尊敬することと、勇気のない自分を受け入れることは矛盾しない。 それが「自分は自分、あの人はあの人」ということである。「自分の位置が分かっている」ということは、こういうことである。 自分の位置が分かっていないということは、臆病なのに、勇気ある人のような充足感を求めることである。勇気がないのに勇気ある人のようなフリをしない。
加藤諦三 「弱さ」を「強さ」に変える心理学 PHP研究所
文章の一部を抜粋したので解釈違いかもしれないけど、コミュニケーションが苦手なら苦手でいいじゃん。ありのままでいいじゃん。無理に周りに合わせようとしなくていいじゃん。
ってこと。(ちゃんと全部読んだほうがいいです)
コミュニケーションが上手な人は妬むのではなく、その人のいい部分なんだなーと思えばいいこと。
前にも書いたけど出来ないことを無理にしようとすると自分も苦しいし周りも気を遣ったり作業量が増えたりして苦労する。
この本に書かれていたことなんだけど、肉体的ハンディキャップをを持った人がわざわざオリンピックを目指さずにパラリンピックを目指すのに、なぜ心理的ハンディキャップを持った人が幼い頃から親から愛され心理的に成熟した人と同じ土俵に立とうとするのか。
これとは状況は若干異なるけど、ハンディキャップがあるなら無理に健常者に合わせず身の丈に合ったことを精一杯したほうがいいよね。